メモ:<音ゲーの才能>と目標達成との関係

以下は考えたことをまとめたメモ書きです。根拠は後から必要に応じて付け足します。また内容そのものを後から追記修正する可能性があります。

考える上で参考にしたいので、様々な形でコメントをくださるとありがたいです(内容に反映されるとは限りません)。

 

 

・以下では<音ゲーの才能>の定義を、「音ゲーの上達にとって有利となるあらゆる要素のうち、自己の意識的努力によって獲得したのでは無いもの」とする(単純に<才能>と表記することもある)。

音ゲープレイヤーが持つほとんどの要素は、<才能>が説明できる割合に違いがある。例えば、身長は個人の努力で変更することは極めて困難であるが、筋力や動体視力は訓練によってかなり向上することが知られているし、記憶した譜面情報とその対策方法は完全に後天的なものである。

・<音ゲーの才能>と見なされる様々な要素は、実際のところどの程度までが<才能>かは、厳密にはわからないことが多い。先述の例では、動体視力が同程度のプレイヤーが二人いたときに、それぞれの行った意識的努力の量も、それが動体視力へ与えた影響も、いずれも測定することはできない。

・<音ゲーの才能>と見なされる様々な要素は、実際のところどの程度までが音ゲーの上達に有利であるかは、厳密にはわからないことが多い。同様に、動体視力の高さが音ゲーに有利であったとしても、例えば「2倍の動体視力を持つ人は2倍上手くなる」というようなことは不明である*1

・<音ゲーの才能>は、上達の過程でいつ顕在化するかわからないことが多い。例えば、驚異的な動体視力を持っている人がいたとしても、音ゲーのボタンの配置を覚えていないとしたら、その能力は充分には発揮されない。

・<音ゲーの才能>は、どの要素がどのように発揮されているかわからないことが多い。同程度の難易度の譜面を同程度に処理できる2人のプレイヤーがいたとして、その2人がこれまでに行った意識的努力の量が同程度だったとしても、例えば1人は高い動体視力によって、もう1人は高い筋持久力によってその能力が裏支えされているということは有り得る。

・ここまでをまとめると、個々人の持つ<音ゲーの才能>は多くの要素が複雑に絡み合って発揮されるもので、他者どころか自分自身であっても、その<才能>の多寡を知ることはできないと言える。

 

音ゲーの何らかの目標を達成するにあたって、その目標達成に<音ゲーの才能>が一切関係しないと考えることは、あまり妥当ではないと思われる。なぜなら、上記のように<才能>は多くの要素が複雑に絡み合っており、その構成要素全てが目標達成に一切関係しないということは極めて起こりにくいと予想されるからだ。

・また、ある程度以上の難易度の目標を達成するうえで、意識的努力が一切不要であるということも極めて起こりにくい。一方でこの点について、意識的努力を行った当人が、例えば「私は楽しくプレイしていただけで、努力とは考えていない」と述べたとき、プレイそのものを楽しめるということそのものも、<音ゲーの才能>に含まれるという立場を取れば、その<才能>を持つプレイヤーの必要な意識的努力は、そうでないプレイヤーに対して少なくなるだろう。

 

・ここまでの一般論から、ミクロの視点に移ったときを考える。すなわちもし「私」や「あなた」が達成したい音ゲーの目標があったとき、自分に<音ゲーの才能>があるのか、あるいは他人に<音ゲーの才能>があるのか考えることは、目標達成に対してあまり有益でないかもしれない。なぜなら、<才能>がどれだけあり、<才能>が目標達成にどれだけ重要であるかを知る手段はないからである。

・一方で、目標に対して自分の能力がどの程度不足しているかを客観視することは重要であると考えられる。この場合であっても、自分の能力は定義上<才能>と意識的努力の総和であるので、<才能>の多寡が不明な以上、行われてきた意識的努力の量について他者と比較することもまた有益でないことが導かれる。

・加えて、行うべき意識的努力そのものを、できるだけ楽しめるような形・方向性で設定することも、極めて重要であると言える。これにより、必要な意識的努力を減らすことができるかもしれない。この点について、「楽しんでプレイすることが目標達成にも最も有益である」とは述べていないことに注意が必要である。

 

文:りせ(X/Twitter: @rice_Place)

*1:一方で、この点はその気になればデータを集めて統計的に調べることは可能かもしれない